カマラ・ハリス氏の出馬を受け、米大統領選が通商政策、ひいてはアジア債券市場に与える潜在的な影響について考えてみたいと思います。
米大統領選は波乱含みの展開となっています。2024年7月、現職のジョー・バイデン大統領は2期目を目指すことを断念し、カマラ・ハリス副大統領を民主党の大統領候補に推薦しました。それまで、世論調査の大半は共和党のライバルであるドナルド・トランプ氏を優勢とみていましたが、その勢いは変わり始めています。変化は特に激戦州で顕著にみられ、アメリカ初の女性大統領誕生の可能性が現実味を帯びてきました1。
投票日が約2か月後に迫る中で両大統領候補の政策や政治目標が、米国とアジアの債券市場にどのような影響を及ぼす可能性があるか、検討してみたいと思います。
選挙運動を通じてトランプ前大統領は、貿易関税によって米国の産業と雇用を守ってきたと自らの実績を熱心にアピールしています。しかし、貿易制裁を行ったのはトランプ氏だけではなく、ジョー・バイデン大統領も特定の中国製品について関税の引き上げを実施しています。そうした製品には電気自動車(EV)や半導体などが含まれ、その目的は「不公正な貿易慣行に抵抗し、その結果生じる損害に対抗するため」とされました2。
ハリス氏が大統領選に参戦したのは最近のことであり、税制や貿易問題に対する同氏の姿勢についてはあまり知られていません3。トランプ氏もハリス氏もともに、関税を引き上げて米国の雇用を守ることが政治的利益になると理解しており、トランプ氏は自分が当選した場合、中国製品への関税を引き上げると述べています4。一方のハリス氏は、トランプ氏ほど保護主義的ではないと一般的には見られていますが、それでも関税の撤廃を意味するものではありません。
製品への貿易制裁は企業よりも消費者に悪影響を及ぼす可能性がありますが、それは企業が関税を追加コストとして消費者に転嫁することが多いためです5。一方、関税は恩恵となることもあり、米国企業のなかでも輸入関税が適用される分野の製品を製造している企業は、海外企業との競争からある程度保護され、製品をより高い価格で販売できる可能性があります。それがおそらく最も顕著なのが米国自動車産業で、最近発表された中国製EVに対する100%の関税は、まさに米国の自動車メーカーを保護する役割を果たしています6。ただし、米国における中国製EVの輸入台数は多くはないため、関税のメリットを過大評価するべきではありません。
米国を拠点とする全米経済研究所(NBER)が発表した論文によれば、2019年から2020年にかけての米中貿易摩擦の際に当時のトランプ大統領が導入した関税は、雇用者数への影響はなかったものの、保護対象となる産業や雇用を抱える地域では共和党に有利に働いたとみられます7。同論文はまた、主に農産物を対象とした報復関税による影響を受けた地域全体では、実際に失業率が上昇したことも明らかにしています。しかし、トランプ氏や共和党への支持はわずかに低下しただけでした。こうした分析結果は、貿易制裁はたとえ経済的に有益でなくとも、政治的に有利になりうるという見方を裏付けています。
実際、トランプ氏が勝利し、その後関税を大幅に引き上げた場合、その影響を受けた国々は報復を発動するかもしれません。米国のエネルギーセクターは、アジア市場に原油、液化天然ガスおよび石炭を輸出しており、そうしたシナリオに特に脆弱な可能性があります8。
暗殺未遂事件や選挙戦後半での民主党候補の交代に伴い、今回の大統領選は過去に比べて曖昧性が高いものとなっています。その結果、株式のようなリスク資産では、ボラティリティが上昇する可能性があります。また、ほぼ毎日行われている世論調査も、不透明感を高める要因になり得ます。選挙が終わるまでの間は、安全性が高いと考えられる債券をリスク資産よりも選好する、リスク回避志向の投資家が増えるかもしれません。
選挙の結果が判明し、不確実性が後退すれば、株式のようなリスク資産は安心感から上昇する可能性があります。一方、(新政権の)ハネムーン期間が過ぎれば、米連邦政府の巨額な財政赤字に投資家の関心が向かうことも考えられ、その背景には政府の歳入額が公約された歳出額を下回っている状況があります9。こうした財源不足が米国公的債務の増加につながっており、その総額は8月上旬に35兆ドルに達しました10。
こうした債務負担の増大は債券投資家の不安を引き起こし、認識されたデフォルトリスクの高まりへの見返りとして、長期国債により高い利回りを求める動きにつながる可能性があります11。一方、債務の増加と大きさがメディアを賑わせていますが、これは経済的な問題というよりも政治的な問題であり、米国債券の投資家にとって大きな懸念となる可能性は低いとみられます12。
直接的な影響はほとんどないものの、米国長期債券市場のイベントに付随する形での影響は、アジア債券市場の大部分に及びます。例えば、中国以外のアジア債券市場では、痛みを伴うことなく、自国と米国の金融政策を切り離すことはできません。米連邦準備制度理事会(FRB)は9月に利下げを開始する見通しを示唆していますが13、それが実現すればアジアの中央銀行にとっても、金利の引き下げを検討する自由度が高まります。金利の低下が債券への需要を高めると期待できるほか、借り入れ金利の低下は企業にとってもコストの削減や利益率の向上に寄与する可能性があります。金利が低下する環境で、世界的な貿易ショックがなく、経済も安定的に成長していけば、アジア債券にとっては総じてプラスであると言えるでしょう14。